審判は間違える
またも例の話題で恐縮です。
別にこの路線(『サッカーの哲学』!?)を狙っているわけではないんですが(笑)
先日「France Info」のポッドキャストプログラムで、哲学者のミシェル・セール(Michel Serres 左写真)が、アンリの事件を取り上げて、面白い話をしていました。
まず、セールはこの事件の本質を「審判」に見ています。スペクタクルとしてのスポーツにおいて、審判とは、そこに暴力が介入するのを防ぐための存在だ、と彼は定義づけます。
確かに、ルールを体現する審判がいなければ、スポーツはタガが外れたただの感情のぶつかり合いになり、時間的にも、空間的にも収拾のつかないものになってしまうでしょう。
したがって、審判が自由に裁量を振るうということが、スポーツをスペクタクルたらしめるためには、ぜひとも必要な要素だということになります。
では、審判とは何か。審判の本質とは何なのか。普通に考えると、審判は試合に対して常に公平で、正しい判断を行う者のような気がします。しかしセールは、むしろ、間違えること(エラー erreur)こそ審判の本質だと主張します。「審判は謝りうるが故に、誤りうるのだ」。
いったい、どういうことなんでしょうか。
少し自分なりに考えてみます。
審判は試合の外から、それこそ僕らみたいにスロー映像を脇に、試合中の出来事を眺めることはできません。というのも、出来事の中に介入しつつ、選手間や監督陣、あるいは観客も含めた感情の流れをコントロールしつつ、そこに暴力が出現することを回避しなければならないからです。そうするためには、起こった出来事を後から論じる目線ではなく、当事者として起こりつつある出来事に参加するような目線が必要になるでしょう。
では、当事者とは何か。それは、出来事の中に巻き込まれているために、その由来や顛末を本質的には見通せない人のことだと思います。
審判が当事者的でなければならないということは、彼が本質的に「誤りうる」存在でなければならないということです。
そういう立場に身を置いているからこそ、試合の流れをうまく運んだり、ときにはぶち壊しにしたり(笑)できるわけです。
そうすると、審判の誤審は特別なことなどではなく、むしろ、スポーツが運営される上で、本質的に織り込まれている条件だということになるでしょう。
セールが言いたかったのは、およそ、そんなことなのではないでしょうか。
「アンリがゴールをマークした(marquer)って?ゴールをマークしたのは審判だ。紙の上にゴールを記入する(marquer)のは審判なんだから。」
一見言葉遊びめいていますが、「審判は本質的に誤りうる」ということを考慮に入れれば、スポーツにおける得点は、「本質的に間違って」マークされたものだということになります。
そもそも得点とは「正当」か「不当」かという区別に先立って、つまり当事者同士の流れの中で、ある意味「おのずと」マークされてしまうものであり、それがまたスポーツのスペクタクル性を保証しているわけです。
いささか奇妙な結論に思えますが、こう考えると、先日のフランス代表のアイルランド代表に対する勝利を「恥ずべき」だと書きたてたり、アンリを「いかさま師」だと見なしたりすることは、スポーツという観点から見れば、的外れだということが理解できるし、さらに、モラルを装った言説の裏側に、何か別の思惑があるのではないか、と感じざるを得ません。
(もう少し突き詰めると、こういった非スポーツ的な議論が噴出するということ自体、スポーツが本質的にはらんでいる可能性の一つということになるかもしれませんが。)
コメントが遅くなりましたが,サッカー記事4回とても面白く読みました.
返信削除色んな人が,それぞれの立場で意見を述べていて,とても印象的でした。
アンリの言葉もよく理解できました。4回目の審判についても、成る程と思いました.ただ、マスコミが『恥ずべき勝利』というならば、フランスチームがワールドカップを辞退すべきというべきで、アンリ一人を責め立てるのは,ひどいですね。アメリカに『自由の女神』を贈ったフランスの世論とは思えませんね.
アンリに同情!
コメントありがとうございます。
返信削除たかがサッカーされどサッカーで、何となく無視できずに、ずるずる書いてしまいましたが、楽しく読んでいただけたのなら、うれしいです。フランス人ならではの反応なのかな、とか、日本人ならどういう報道になるかな、など、いろいろ考えさせられました。