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変化を見ることーベレニス・アボット

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Jeu de Paume 美術館で開かれている、 『Berenice Abott(1898‐1991)Photographies』に行ってきました。 ニューヨークとパリを跨いで活躍した写真家だけあって、 平日にもかかわらず長蛇の列ができるほどの人気でした。 ベレニス・アボットはアメリカの女性写真家で、 「Changing New York」という1930年代のマンハッタンを写したシリーズで有名です。 都市の写真家といえば、 20世紀初頭のパリを写したウジェーヌ・アジェ(Jean-Eugene Atget,1857-1927)が有名ですが、 アボットは晩年のアジェに会い、その際に撮ったポートレートも展示されていました。 彼女にとって、アジェの作品群は、都市を写真に収める際のお手本のようなものだったようです。 とはいえ、アジェの写真(上)が比較的静かな風景なのに対し、 アボットの写真(下)からは、日々刻々と変化しつつある都市のノイズが響いてくるようです。 20世紀を横断するアボットの人生は、 同時に、科学技術が戦争に向かって爆発的に展開していく時期でもあり、 世界が人工的な光に満ち溢れていく時代でもあります。 自ら「光があまりなかった」と語る出生地(オハイオ州)から、 30年代のマンハッタン、50年代のMITにおける科学実験撮影に至るまで、 世界はますます「可視化」されていきます。 それはとりもなおさず、写真撮影が簡略化し一般化して行く過程でもあります。 視覚そのものが急激に変化した時代といってもいいでしょう。 彼女が残した作品群には、そういった根本的な変化の爪痕を感じることができます。 アボットは1921年にヨーロッパに渡り、1923年からマン・レイのもとで写真を始めます。 写真だけではなく、彼女の人生そのものが、この時代のパリの活気を表しています。 初期の仕事は主にポートレイト作品です。 下の写真などは、ジャン・コクトー独特の遊び心と、 写真を含めたアート作品の軽さ(生)と儚さ(死)を見事に切り取っているように感じます。 アボット自身が良く撮れていると語っていたのは、ジェイムズ・ジョイスのポートレイトです。 『ユリシーズ』等の作品を書き終え、おそらくすでに『フィネガンズ・ウェイク』執

耳を切り裂き、切迫するもの。言葉。

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先月の29日からパリでも公開されている「Extrmrly Loud & Incredibly Close」を観てきました。 詳しいレヴューはこちらをどうぞ。 → http://blog.goo.ne.jp/barriosmangre/e/65dc40050c10726dcf06f30562f08030 9.11を題材にした映画ということで、 興味深いと同時に、少し構えてしまう所もありましたが、 実際に観てみると、ヒューマン・ドラマ的な色彩が強く、意外にすんなり入り込めました。 多くの犠牲者を伴う大事件も、 骨格としては、僕らが生きている日常的な世界の一場面だし、 日々の些細な出来事のなかには、歴史的大事件と同じくらいの危機や混乱が含まれているのかも 知れないなと感じました。 上で紹介したブログでは、「鍵」をめぐる考察が目を引きます。 実際、この映画は鍵が主人公といっても良いかもしれません。 閉ざした扉を開ける、という行為は、 物語の開幕を告げるイメージもありますが、 と同時に、別の物語に向けて現在の物語を終幕させるようなイメージもあります。 また、鍵は一組の対(鍵穴と鍵)を想起させますが、、 その対が切り離されて、それぞれ別の場所に保管されることを前提にしています。 それはあたかも、一組のカップル、一組の人間関係のなかには、 二つの存在を結び付ける要素と、それを引き離す要素が常に混在しているという事実を 示唆しているようです。 連想ついでに言っておくと、鍵自身には特別な価値がなくても、 それが守っているものは、基本的には何らかの価値のあるものです。 そのことから、鍵はどこか、資本や言語を想わせるものがあります。 お金も言葉も、それ自体の価値よりも、それが流通することによって生まれる 剰余価値で成立していますが、鍵もまた、それ自体の金額よりも、 それが鍵穴と結びついたり離れたりすることによって、 箱の中に保管された大事なものを目に見えるようにしたり、 あるいは、永遠に手の届かないものにしてしまいもします。 映画の話に戻りますが、ネタばれ注意です。 これから観る予定のある方は、ご注意を。 ごく大まかに言って、この映画は、 オスカー少年と9.11事件で命を落としたその父との失われた関

ゴッホが最後に見た風景

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パリ近郊の街、オーベール=シュル=オワーズに行ってきました。 → Auvers-sur-Oise ゴッホやセザンヌゆかりの街として有名で、 彼らの作品のモデルになった風景が今も点在しています。 駅前 パリ市内から、RERで約1時間ほど。 「ゴッホが死の間際に逗留していた街」として、 さぞかし観光地化されているかと思いきや、 街中、絵画のモデルになった場所にそれを示すプレートがある以外は、 ごく普通の落ち着いた街という印象でした。 落ち着いた街並みでありながら、 一つ一つの家が、 すごく個性的で素敵でした。 もちろん、ゴッホが息を引き取った部屋が今も残されているラヴー亭や、 彼の主治医であり、絵のモデルにもなったガシェ医師の家など、 散策の目玉になる場所もありますし、 なにより、名画が描かれた場所に赴き、そこから景色を眺めると、 画家たちの創造性の源泉に触れているような、不思議な気分になります。 ↓ ゴッホ 『オーベールの教会』 ↓ セザンヌ 『 オーヴェール= シュル=オワーズの首吊りの家 』 (中央やや左の建物) こうして実際の風景を見てみて思うのは、 画家たちが、目に映る風景を、かなり凝縮して画布に描いているということです。 ゴッホの教会も、セザンヌの首吊りの家も、 まるでそこだけ他とは違う重力が奥に向かって働いているかのような、 あるいは、建物が、狭い穴を無理やりこじ開けて出現してきたかのような、 そんな印象を受けます。 それはきっと、画家の風景に対する集中というか、没入の力強さでもあり、 また同時に、彼らに対する風景の存在感というか、切迫の力強さでもあるのでしょう。 彼らは、ただ事物が「ある」ということを、 まるで異世界の出現といったような、 途轍もない出来事として受け取っているかのようです。 街の静けさと、画家たちの作品の迫力には、 どこか謎めいた符号があるのかもしれません。 何の物音もしない夜明け前の街が、 いつもと異なる表情を垣間見せるように。 しばらく散策していると、 いつの間にか、一匹の黒い犬が、まるで道案内するように前を歩いていました。 その後、パリに戻るために駅に着いて気が付くと、姿が見えなくなってしまったのですが、 もしかし

Rock en Seine 2010

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夏真っ盛り、毎年パリ郊外で開催されるロックフェス『Rock en Seine 2010 ( link )』に行ってきました。*リンク先はすでに2011年用に変更されています。 グラストンベリーなどの大規模な野外フェスに比べれば、それほど大々的なイベントというわけではありませんが、新進の若手アーティストから、大御所バンドに至るまで、現在のロックシーンの広がりを抑えていて、老若男女楽しめる感じでした。 チケットを購入すると、リストバンドがもらえます。 これがないと入場できません。 このリストバンド、3日間券なのですが、初日に係員に巻いてもらった後は、どんな理由でも外してはいけないことになっています。友達同士で貸し借りし合うことを禁じているのでしょう。けっこうしっかり装着されます。 グッズとして販売されていた長靴。 なかなかの人気でした。 夏真っ盛りと書きましたが、帰還中はむしろ肌寒いような陽気。 大粒の雨が降ることもしばしばで、最終日のオオトリ(Arcade Fire)も、降雨中断の後、アコースティックセットに切り替えて数曲演奏したものの、結局中止のアナウンス。 去年のOASISに引き続いて、最終日には波乱がありました。 会場は3つに分かれていて、大きめのものが2つと、小さめのものが一つ。 小さめの会場ではQuadricolorなどの新人バンドが。 大きめの会場ではビッグネームが。写真はJonsi。 また、ライブだけでなく、アーティストの写真を展示したスペースや、ダンス系のゲームをするコーナーがあったり、出店ではアフリカや南米や日本など世界各国の料理が食べられたり、いろいろな楽しみ方ができるようになっていました。 個人的に面白かったのが、様々なイラストレーターが手掛けた Rock en Seine のチラシを、大きく引き伸ばして並木道に展示していたゾーンでした。 音楽がいろいろな形でインスピレーションになって、イラストという形で作品に結びついていることが、ただ作品を鑑賞して受け流すだけではなく、別の活動に繋げていくようなアクティヴな受け取り方を示しているようで、見ていて飽きませんでした。 このようなポスターが、 並木道の両側にずらりと並べられていました。 荒れ気味だった天気も含めて、なかな
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7月14日の花火。
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W杯、フランス代表がメキシコ代表に負けた日の夜の街かど。

カメラ、盗み見る視線

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ロンドンのテイト・モダン美術館で、 『Exposed』という企画展を観てきました。 → Exposed-Voyeurism-Surveillance-Camera  『晒されたもの、覗き見、監視、カメラ』というタイトルからも分かるように、 写真の本質を「盗み見ること」のうちに見出そうという、いささかショッキングで挑発的なテーマです。 いわゆる「盗撮」は、一般的には、写真という技術を悪用したものであり、 カメラの本質は、盗み見ることなどではなく、 堂々と目の前に広がる風景を写しとることだと思われています。 しかしながら、目の前に広がる風景を写すときに、カメラという人工物の介在が、 すべてのバランスを狂わせてしまうということがしばしば起こります。 特に人物の撮影において、彼や彼女の「自然な」表情を捉えるためには、 非常に高度なテクニックが必要だということは、周知のことでしょう。 目の前の風景を、そのまま「写す」ためには、写している主体であるカメラの存在が、 その風景からできる限り差し引かれなければならないのではないでしょうか。 写真の本質が「自然を写すこと」だとすると、 カメラはできるだけその存在を消さねばならないことになります。 こう考えていくと、写真の本質が「盗み見ること」にあることが分かってきます。 実際、今回の企画展が示す通り、 カメラの発明とほぼ同時期に、盗撮のための道具が発明されています。 この Walker Evans による写真も、 カメラの存在を気付かせないことによって、1930年代のニューヨークの地下鉄に乗る人々の「自然な」表情を捉えています。 さて、「自然な」風景を気付かれずに盗み見たいという欲望は、 秘められた事実を暴きたいという欲望と密接に結びついています。 そこに、ダイアナ妃をはじめとする著名人を執拗に追いまわし、 平均的な市民には手の届かない彼らの生活を隠し撮りする、 パパラッチと呼ばれる人々の行いがあります。 カメラの大衆への普及や新聞等のマスメディアの発達によって、 この傾向は近年ますます強まっていると言えるでしょう。 またこの欲望は、 いわゆるポルノ写真に対する欲望とも関係しているでしょう。 公共の視線からは隠され秘められた「女性の裸体」を写すと